長夜のともしび
明けない夜はない、というような言葉がありますが、我が子の自死に遭ってからは、そのような言葉こそ私の辞書からは無くなってしまいました。
それどころか、長夜こそが人生であり、その暗闇の中に産み落とされたのが人間なのじゃないのかと考えるようになりました。
実際目に見える日常では、太陽光が当たる昼と当たらない夜があり、太陽光が射している時間は物理的には明けているわけですよね。
でも、そんな日中であっても『人生自体』は暗闇。
一歩先は誰にも予測できない事が起こりうる闇。
思えばこれまでの人生の中でも様々な想定外の出来事はありましたが、やはり段違い、レベル違いでの衝撃を受けたのは、亡き娘の事です。
正直、知らなくて良いほどの壮絶な心の苦しみ、葛藤、不快な痛みと深い悲しみ。
持ち前のノー天気気質とポジティブ思考で乗り越えられてきたような事柄とは比べ物にならない心に受けた傷と後遺症。
けれど、それらの体験により、藻掻いている最中に思ったことは、『もともと人生は暗闇を歩いているようなものなんだよな』ということでした。
こんなことを言うと、「お前大丈夫か?」と読んでくださった方に呟かれそうですが、事後間もない頃ならばともかく、今現在、三年七ヵ月経って冷静に考えてみてもそう思いますし、一歩先は闇の長夜を歩いているのだと(ある意味)自覚できたからこその、新たな気づきもありました。
人生(長夜)には、灯(ともしび)となるモノが、とてつもなく大切であることをあらためて思い知ったのです。
ともしびとなるモノは、人により様々違うのでしょうし、たくさん必要とする人もいれば、何か一つだけでも十分な人もいると思います。
私にとって、事後、ともしびとなってきたモノたち。
『人との交流(で得た言葉や考え方)』
『事(新しいモノへの出逢いとなる場的な)』
『自然(草花や風景)』
『動物(との触れ合い)』
言葉に関してはまたつい先日、【月のうさぎさん】というAmebaブロガーさんの【もう1つの罪悪感】というブログの中に見つけたので、シェアしたいなと思い、ご本人様に伝えましたら、更に詳しくテキストを探してくださいました。
本当にありがとうございました。
人間はみんな、生まれた瞬間から死に向かっている。
どこかで命はついえるので、それを自分で選ぶのかどうかという違いでしかない。
日常の行為も、自分で決めてできることなんてほとんどない。
病気になりたくてなるわけじゃないし、なるまいと思ってもなってしまう。
自死の場合、それが心だったというだけです。
体を病に侵されて亡くなられるのと、心を病に侵されて亡くなられるのと違いはそんなにない。
自死は一見、自分の意志で亡くなるように思えますが、それだって心が思うようになるのであれば、死なないわけです。
<高野山真言宗の猪智喜さんの記事より一部引用>
★小冊子『宗教者へのインタビュー』
他にも様々な宗教(宗派)の方々から、自死についての考え方が載せられています。
私も亡き子の事があってから自死について調べてみたり、考えてきたのですけれど、ほぼ同じ考えを語ってくださっていた方がいたのだと、月のうさぎさんのブログで発見できて、有り難く長夜のともしびにさせていただきました。
気心の知れた自死遺族さん方と、神奈川茅ヶ崎市にある人気店で食べ飲み歩き。会話のあちこちに普通に登場する亡き子たちに纏わる話題。ともしびの一つとなるこのひとときにも感謝しています。
照らしてくれる灯りがあることは、無明の中で無駄に転んで擦り傷を増やしたり、それが致命傷になることを防ぐことにもなったり、ほんの少し歩きやすく生きやすくしてくれていると感じます。
◆自死遺族の集い◆
2コメント
2020.10.06 03:07
2020.10.04 21:57