自分の感受性くらい
我が子の自死に直面する、もうずっと以前から、私は茨木のり子さんの詩に心惹かれて、詩集本も購入するほどの読者(ファン)でした。
けれど、その詩に込められた“作意”や“こころ”を読み取れていたのかどうかというと………。
ただ文章の表面を撫でて、“厳しいこと言うけどカッケーなぁ”とか、“いいこと言うね”とか、憧れと、浅い斜め読みだったのかもしれないです。
これほどの悲しい事があってから。
やっと彼女の数ある詩の深さ、大きさに、ある意味『抱き締められて救われている』といっても過言ではないくらい、心に染み渡ってきている昨今です。
思い返すと、彼女が詩文集の中で発する言葉『震える弱いアンテナ』が、亡き子に対してはもちろん、まわりの人たちに対しても、殆ど作動していなかったのではないか?と反省してしまうほど、こんなことになってしまった後、彼女の言葉に打たれるのです。
鈍感――人間――――。
本来であれば人が皆持っているはずの『感受性』が、もっと敏感に働いていれば、亡き子の心の移り変わりをキャッチできていたのではないのか。
なんて………、自責の話になっていますが、最近は、自責の念も、実は供養の一つなのかなと思うようになりました。
大切だった亡き人を思い偲び、ありとあらゆるタラレバを考えて考えて考え尽くしても、また考えてしまう。
それも亡き人と自分への供養の一つなのかなと思うのです。
ぐるぐる ぐるぐる、毎日考えて、悲し過ぎて悔し過ぎて、行き場の無い思いにグレかけていたこともありましたが、むしろ無理に止めることもない、供養の一つにも感じてきました。
問題は、ぐるぐるした先の話でしょう。
自責の念や悲しみ苦しみに追い込まれて自滅するのであれば、亡き人の供養にもならず、自分をも救えず、世捨て人(敗者)同然です。
それらから思い返し、顧みて学び、今在る人生に僅かでも、どうすれば亡き人を無き人にせず生かせるのか、考えてトライし続けるだけでも、『負け』にはならないと思います。
勝てなくとも負けない。
それと、時間(とき)に流されただけでは、なんにもならないようにも思います。
前にも書きましたが、『時間薬』は無いと私は思っています。
自分の中に浸透していく何か………、御守りになるようなものを見つけたり感じ取ったり気づいたりすることがあれば、時間の経過とともに薬として作用する可能性はあるのじゃないのか。
その中の一つ、
『自分の感受性くらい』/茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
親近のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
心に浸透して抜けない御守り。
私がもっとアンテナを張って、亡き子の心の変化、異変を察知できていれば………。
今日も自責の念が、何かの拍子に心の中でぐるぐると絡まりつつあるけれど、ぶちギレてグレないように、ところかまわず放り投げて他人に怪我をさせないように、心の片隅に御守りを。
亡き子には何かなかったのかなぁ、この世での御守りが。
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