亡き子と出逢う
逆縁自死で我が娘を喪ってから、できなくなったことがいくつかありました。
『食べれなくなった人』
『眠れなくなった人』
『喋れなくなった人』
『人に会えなくなった人』
『なにもヤル気が起きなくなった人』
ご遺族にも様々あると思います。
私ができなくなったことは、テレビの音を含め、音楽を聴くこと。
映画鑑賞、ドラマ鑑賞、……できなくなりました。
絵画鑑賞、まわりの風景から色が感じられなかったり、暫く大好きな絵も描けなくなりました。
食べれます、眠れます、家事もほどほどにできます、必要最低限の生活に関することはできていたのです。
しかし上記の娯楽に関することができなくなりました。
自己分析、特徴としては、心を揺さぶられるモノや事を避けるようになったということでしょうか。
なるべく感情の起伏を抑えるように自己防衛する感じだったのかな、と。
けれど、それも一年経つか経たないかで徐々に回復して、以前のように100%?楽しめなくとも、それ以前とは違う新しい感じ方で、できなかったことに接することが可能になってきたように思います。
『新しい感じ方』
事後に新たに出会った多くの方々との御縁繋がりで、たまたまオンラインで某所の副住職様を交えて、法話にも触れながら自死遺族(ある程度面識のあるメンバー限定)で、zoom会合に参加させていただきました。
これまで自死遺族の集いをガチでオンライン開催はしたことがないので、お試し……という感じでしたが、そこでのお話で、思いもよらず個人的に自身の心の中にストンと入って落ち着いたお話がありました。
キーワード『新しい感じ方』にも通ずるようなお話です。
『大切な人を喪ってから、生前では気づかなかった“その方”に、新たに出逢うことがある』と、仰ってくださって。
その通りなのじゃないかと、私は思ったんです。
亡き娘のことも全てわかってきたようで、実はうわべのお世話をしてきたにすぎなかったのではないかと、自責を含めた感情で語るご遺族さんは多いですし、私もそう思います。
本人の癖や体の特徴などは目に見えてわかって記憶していても、もっと掘り下げた人としての内面に気づいていないことがたくさんあり、だからこそ生前のときより、もっともっと彼方の彼等を想うようになったり、考えを巡らせてみるようになり………
それは亡き娘との新しい出逢いのようでもあると、私の胸の中にストンと落ち着きました。
私の知らなかったゆうちゃんとの出逢い、想い、それを通して私が生きていく上で、ゆうちゃんとの新しい絆も生まれていく。
そういえば共感しながら読ませていただいている自死遺族ブロガーさんたちの多くが『一緒に生きていく』という思いを言葉にしていて、なぜ私もそれに共感できるのかが、あらためてわかったように思います。
悲しいことも含めて、過去の楽しい思い出を宝物に、喪ったからこそ強く思い巡らし感じる『新しい亡き娘』とも、付き合い続けて生きたいなぁと、その思いにあらためて同意しました。
📷画面向かって左から二番目が、生前の亡き娘です。校外学習で都内某大使館へ行った道中に撮ったものかな。
2020年晩夏、なんと事後から三年七ヵ月経ち、当時中学校の皆さんからいただいたDVD動画を観ることができました………!
自分の感情が暴走するのが怖くて、死ぬまで観ることは不可能だと思っていたものを意外にサックリと!
いや、サックリとはいきませんでしたね(三年七ヵ月はかかりましたし)。
そして、あまりにも一生懸命に生きて居た亡き娘の姿に、残暑も手伝い汗を流して熱く見入ってしまいました………涙でなく汗です!
二年一組、校内合唱コンクールで金賞獲得の舞台では、頬を赤らめて体で拍子をとってパワフルに歌っていましたよ(; ・`д・´)!
それでも翌年一月に自ら命を絶つ。
私の知らない悩みに思い詰める彼女も居たのですよね。
自死することへの理解はできなくとも、生前は知らなかった亡き娘のこと、もっと知ったり感じたりして生きたいです、せっかく出逢ったのですからね!
一緒に歌った同クラスのみんなは高校三年生、大人になっただろうなぁ。。
うちのゆうちゃんの姿は無くなりましたが、大きく育っているようですよ、私の中で。
◆自死遺族の集い◆
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