前を向くとか
愛する人に自ら先立たれて、自責の念に苦しみながら過ごしている自死遺族の方々は本当に多いと思います。
私も、最近は大分気持ちを逸らせる術が身についてはきたものの、やはり自責の念は常に心の奥底にあります。
この事についての詳細にはあまり触れません(触れたがらない私です)が、…言えばキリがなく、自分でも本当に情けなくなるくらい『思う事』が数多くあり過ぎるからなのです。
あのとき、たった一言ああ言ってあげていれば…とか、あれは言うべきではなかった…など実に些細なことを含め、止め処なく思い出されてしまい、一気に自己嫌悪に陥るからです。
なので、わかちあいの席やブログ記事などで、自責についてのお話しを具体的なエピソードを添えてカミングアウトされているご遺族の方々を見ると、逆にある種の潔さを感じます。
(めちゃ向き合ってるよなぁ…と)
私の場合、逝き場を失くして胸の奥に『息づく自責の念』なのですが、そんなものはほとんど無いという自死遺族が、私の身近に居たりします。
私の主人です。
彼は娘が先立った、わりとすぐから、
「俺なりにあの子を十分可愛がり愛情込めて育ててきたし、自責や後悔で苦しむことは無い」
「もしもああしていたらというのがあるとすれば、俺が主夫で子育て中心の生活をしていたらどうだっただろうか、それくらいかな」
なんて語っていました。
このようなタラレバは一つあるにしろ、自責で苦しむことはほぼ無いと言い切る主人。
天晴………というか腹の底から羨ましく思いましたし、そんなふうに考えられる自己肯定感?の高さにも参りました。
同時に、ますます私自身に対する自責の念が深まってしまいました。
(私が子育てメインの家庭だったから?………と)
とはいえ、主人が自責の念での苦しみが無いに等しいのは、亡き娘と直に会話したり過ごしている時間が、私より圧倒的に少なかったからだろうな…とも考えました。
故人と、より関わってきた密な時間が少ない分、自責の念を植え付けてしまうようなエピソードも少ないわけですからね。
こんなことを書いたら『何言ってるの?』『オカシイ』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私が自責でぐるぐる最狂の時期には、
『やはり胎教も不味かったのかな?!』
『エミネムのスタンなんてダークな曲を聴きまくってたものなぁ!』
などと本気で考え出し、自身の妊婦時の胎教についても責めていました。
あれもダメだった、や、これもダメだった………そう考えて行き着くところは………
『宇宙の存在自体が間違っていたのでは!』
というところまで考え詰めていました。
宇宙の所為にするのか?
もうダメ過ぎるワタシは………
ぐるぐる ぐるぐる
地球はまわっていて
ぐるぐる ぐるぐる
宇宙はまわっていて
いや、一番ぐるぐるしていたのは自分の心。
人間の頭の中(心の中)は宇宙よりも果てし無く、ぐるぐるまわり続けているものだなぁと、涙目、絶望的な状況の中でも、少し笑けてきたものです。
(どこ見ているのだ………と)
そんな苦しい時間が過ぎてゆく中で、
下(足元)ばかりでもなく、上(空)ばかりでもなく、ほんの少し道の先で微笑んでいる草花に気づいたようなあの日。
前方だけでなく後方だけでもなく、道端に取り忘れて行った他所んちのワンコの排泄物に「クソ!」と小さく舌打ちしたようなあの日が、案外私なりの前を向いて歩き始めた時だったのかもしれません。
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